僕の読書のーと - 思考を収穫せよ! -

能動的な読書。生き方・人生の視点で本を読んでいます。

〔web読書〕三浦崇宏さんの人脈論

R25『“人脈”なんて言葉を使ってるヤツはクソ。#三浦崇宏の人脈論』からの収穫。
三浦さんの人脈論は僕の読書観と似ている。
r25.jp

本との出会いに無駄なものはない

僕は本を選ぶとき、直感を大切にしている。背表紙を見て、「あ、読みたい」と感じた本を手に取る。図書館で本を選んでいたときからこのやり方だ。本から呼ばれる、誘われる、選ばれるという感覚。
本との出会いに無駄はないという考えなので、そういう感覚的なものを重視している。自分の直感を信じる訓練にもなっている。


だから立ち読みはしない

立ち読みをしたくなった本(=内容を確認したくなった本)は、まだ読むべき本ではないという判断になる。そういう本を買ったとしても、内容が頭に入ってこなかったり、本から拒絶されているような感じがするからだ。一応は読み終えるのだが、読みこなすことができない。
しかし、5年後10年後にふと読みたくなって開いたら、スッと頭に入ってくる経験を何度かしている。だから、表紙や帯を見てなんとなく不安を覚えたら、読まずにそのまま戻している。読むべき時が来たら読みたい本としてまた再会するだろう。本との縁はそういうものだと思っている。


人からの紹介を受けない

「この本面白かったよ」やベストセラーというものに興味がない。なぜならその紹介は、他人が主語になっているから。「(紹介者が)この本面白かった(と思っているから紹介する)」であり、(僕以外の大勢が読んでいるから)ベストセラーなのである。他人が感じる"面白い"は、僕の求めているものではない。読むべきときがきたら、本の方から僕を呼ぶ。
ただ、「その本を読んでるならこんなのもあるよ」や購買履歴に基づいたオススメはチェックする。これは僕が主語になっているから。「(bokupuが)その本を読んでいるなら」であり、購買履歴(bokupuが読んだ本)に基づくオススメなのだ。紹介よりもアドバイスに近いから参考にする。しかし、読むかどうかを決めるのはやっぱり直感だ。


読んだ冊数だけで語る

これを読書家がするのは下品だと思っている。
「“読書量”なんて言葉を使ってるヤツはクソ」に近い。読んだ本の冊数だけで読書家を名乗るのはクソだと思っている(読書量+αがあるなら話は別ね)。読んだ本のタイトルを並べて喜びたいなら、活字中毒や趣味というフィールドがある。読んだ冊数や速さを競いたいなら、速読家の方がしっくりくる。本の内容がタイトル程度しか頭に入ってないのに、たくさん読んでるだけで読書家なんて言われるとなんか…さ。まだそんなこと言える立場ではないんですけどね。わかってます。
僕の考える(目指す)読書家とは"読書が人生を豊かにするための手段になっている人"だ。もっと具体的に言うと、本からの情報を自分の中で普遍化(インプット)し、それを生きる知恵として活用(アウトプット)して人生の中に滲み込ませている人。読書から得られる経験を大切にしている人が読書家だと思っている。速さと量は+αの部分になる。
とは言っても、本の読み方に善悪はないから、自分の好きなスタイルで読むのが一番いいというのが僕の結論。でもさ、せっかく言葉とたくさん触れ合っているのだから、名乗り方を工夫した方がカッコイイなと。それだけ。
読書について気が合う・合わないは、本の好みじゃなくて本に対する姿勢と意識かな、と感じるようになってきた。読書が趣味!で年間数百冊読み、タイトルやあらすじ、著者を記憶しているような人はすごいよね。それと、"+α"の部分に速さと量がある人もすごい。



おしまい。